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私たちはAIと共に何を書いているのか?

2025年08月16日

この記事は note.com 100日チャレンジ のミラーです。

私たちはAIと共に何を書いているのか?

1980年代、私は日本語ワープロを自己目的的な玩具として遊んでいた。文字を打つこと自体が楽しい。変換の制約、限られたフォント、モノクロの画面。今思えば、あの頃の日本語ワープロは、8ビットマイコンの矩形波サウンドのような、技術的制約が生む独特の美学を持っていた。

生成AIが紡ぐ「いかにもな文体」を見ていると、あの頃の感覚が蘇る。完璧ではない、少し不自然、でも妙に愛おしい。技術が未熟な今だからこそ、身近に感じられる何かがある。

偶然性が生む新しい表現

1960年代の前衛芸術では、偶然性を創作に取り入れる実験が盛んに行われた。同じ頃、スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーは、短いフレーズを反復させ、少しずつ位相をずらしていくミニマル・ミュージックを探求していた。単純な繰り返しから、複雑で豊かな音響空間が生まれる。

これらの前衛芸術は、やがてテクノロジーと出会い、爆発的に民主化された。

誰もが表現者になれる時代へ

ウェブの登場で、誰もがHTMLを書けば発信者になれた。ブログが生まれ、SNSが広がり、YouTubeで誰もが映像作家になれる時代が来た。スマートフォンは創作を日常の一部にした。15秒のTikTok動画、インスタグラムの正方形写真——新しい制約が新しい創造性を生んでいる。

そして2020年代、生成AIという究極の民主化ツールが現れた。プロンプトという新しい形のカットアップ。誰もが「作家」になれる時代の到来。しかし同時に「作家性とは何か」という問いも生まれている。

動物との会話、虚構が現実になる瞬間

私はこの1年ほど、動物たちとの会話をAIで記事にしている。

これは虚構だ。愛犬や愛猫は人間の言葉を話さない。でも、彼らとの無言のやりとり、視線、仕草——それらをAIと共に言葉に変換していく。書き起こす瞬間、その会話は私にとって現実になる。

書く前は曖昧な記憶と感触だったものが、書いた後には「あった」ことになる。これは嘘ではなく、ある種の翻訳なのかもしれない。言葉を持たない存在との交流を、言葉にする行為。

ネイティブには書けない言葉を

私はむしろ、ネイティブには書けない言葉を生み出すテクノロジーを、私のなかに取り込もうという野心を持っている。

母語話者だからこそ陥る言語の慣性。「自然な」表現への囚われ。AIの生成する微妙な違和感、その「不自然さ」こそが、新しい表現の可能性を開く。動物たちがそうであるように、AIもまた人間の言語の「外部」にいる。その外部性を内部に取り込むことで、誰も書いたことのない文章が生まれる。

現代のカットアップは、鋏とのりではなく、AIという共犯者と行う。それは単なるツールの使用ではなく、新しい言語器官の獲得だ。

短編小説制作の実験——GPT-5を使った二段階プロセス

先日noteで公開した短編小説は、ChatGPT-5 Thinkingを二回に分けて使った実験的な制作プロセスで生まれた。

第一段階:コンセプトから粗い下書きへ

私が愛聴するスティーリー・ダン。このバンド名が、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』から取られていることを知る人は多い。1970年代、二人の文学青年が結成したこのバンドは、その名前からしてバロウズへのオマージュだった。

バロウズ(1914-1997)は、ビート・ジェネレーションの作家として知られるが、彼の真の革新性は「カットアップ技法」にある。1950年代末、画家ブライオン・ガイシンと共に開発したこの手法は、テキストを物理的に切断し、ランダムに再配置することで新たな意味を生成するものだった。

「言語は宇宙からのウイルスだ」と語ったバロウズは、カットアップによって言語の線形性を破壊し、偶然性から生まれる予期せぬ連想と意味を探求した。デヴィッド・ボウイが歌詞制作に用い、ウィリアム・ギブスンがサイバーパンクの原型として参照したこの技法は、人間の意図を超えた創造性の可能性を示していた。

そして2020年代の今、私たちは生成AIという新たな「カットアップ装置」を手にしている。

みたいなことをひらめいて ChatGPT-5 Thinking に投げ込む。以下は主なプロンプトだ。

生成AIは裸のランチか?

このテーマで短編小説を作りたい。よい作品を作るために必要な情報を質問して

主人公は、広島出身。大学生だった1990年代にコンピューターとコミュニティのさまよい人だった。パソコン通信からインターネット黎明期。その後、京都、谷中、阿佐ヶ谷と趣のある町で生きてきながら、自分を探しつつけて、そして広島にもどってきた。

PyCon JP 2025 の広報の一環で、座長の私小説的な短編にしたい

これ面白いかな

「Jira チケットの期限切れ」とか Slack のメンションとか、GitHub Action の警告を小さな事件として盛り込む

その場がドッグカフェで、足下に白い愛犬がいるように書けるか

犬の名前を削って、読み手が感情移入しやすくして

考えてみればカットアップというのは多くのプログラマーがやっている現実の仕事だね

Cronenbergの映画には現在のテクノロジーやAIを示唆するシーンがあっただろうか

Cronenbergの裸のランチは何年?

私はこの映画を1990年代に見ている。

2025 年の AI 論争もまた Cronenberg 的カットアップの続きに見えてくる これを追求したい

Slack 経由で AI エージェントにコーディングを指示している。人間はプログラムを書く人から書かせる人になった。これは擬人化されたタイプライターだ

最初は「‟真新しい”と称されるテキストが、実は巨大な他者の切り貼りであることを暴く鏡として機能する。」みたいなテキストだったものが、AI と議論を重ねて、短編小説っぽいものになっていく。

第二段階:下書きから完成形へ

すでに PyCon JP 2025 というコンテクストを与えてある私の GPTs を使うのを忘れていた。新しいチャットに移植して、文体や構成をリファインしていく。ひきつづき、主なプロンプトだ。

この短編小説を仕上げたい

この記事を公開して、私が満足かどうかを先に考えたい

私はたぶんなにかを叫びたい気持ちになっている。座長として、最初は無限の可能性を感じていた。だが叫んでも叫んでも届かない。マイナスをゼロにしただけでは足りない。

深夜ラジオとか電波のイメージが欲しい

SF映画のタイプライター

この記事に、疑問文でタイトルをつけて、座長は最近こういうAI駆動執筆を楽しんでいる、みたいなリードを付けられるか

この記事のアイキャッチ画像。文字なし、イメージ。抽象的に。横長

最初の「雑なキーワード」からのレスポンスは、私に新しい「問い」を連想させる。この繰り返しで作られたものは、私の創作物だろうか。誰も読みたくない「生成AIまるなげ作文」だろうか?

プログラミングにも言えることだが、私が AI をコントロールしきれる自信を持ち、そして AI が私のコントロールを逸脱することを、私が歓迎して楽しめる余裕を持てるならば、どちらでもいいのだ。

この遊びは誰かの役に立つだろうか

この実験的な試みは、きっと誰かの創作の勇気になる。「完璧でなくていい」という許可。技術を恐れず、玩具として楽しむ姿勢。言語化できない何かを言葉にしたいと願う人々への、ひとつの方法の提示。

非母語話者、言語障害を持つ人、標準的な表現に違和感を持つ人——言語の外部にいる人々にとって、「ネイティブには書けない言葉」への挑戦は、新しい希望かもしれない。

技術を身体化する

かつての8ビットマイコンの矩形波が、今では懐かしい「時代の音」として愛されるように、生成AIの「いかにもな文体」も、いつか私たちの表現の一部になるだろう。

技術が未熟な今だからこそ、取り込む余地がある。完成されていないからこそ、遊ぶ価値がある。制約と偶然性が、新しい創造を生む。

私たちは今、AIを使う人と使わない人の差が極端になっている時代にいる。この「生の感覚」を記録し、共有することにも意味があるはずだ。


PyCon JP 2025 開催のお知らせ

コードと創作、技術と遊びの境界について、Pythonの仲間たちと語り合いませんか?

PyCon JP 2025は、2025年9月26日・27日に広島国際会議場で開催されます。東京を離れ、初めて地方で開催される歴史的なPyCon JPです。

技術の民主化、コミュニティの形成、そして新しい創造性の探求の場を作っていきます。制約が創造を生むように、東京ではない広島だからこそ生まれる新しい価値があるはずです。

カンファレンスチケット・パーティチケット発売中です。技術を「玩具」として楽しみ、実験と遊びを大切にする皆さんのご参加をお待ちしています。一緒にこの歴史的なイベントを体験しませんか?